まず、花畑町にあった二十三連隊の移転跡地再開発に伴い新設された道路に、それまで長塀前を通っていた路線を移設。1928(昭和3)年3月から一部運行開始。続いて同年12月22日に浄行寺町~子飼橋、翌1929(昭和4)年6月に移設路線の残りが開業した後、6月20日から辛島町~春竹駅前(現在の南熊本駅)と辛島町~段山町が開業。最後に段山町~上熊本駅前が1935(昭和10)年3月24日に開業しました。
やがて日本の軍国化が進み、戦争状態に突入すると、徴兵や軍需工場徴用で男性乗務員が不足。市電では女性の車掌や運転士も登場。貴重な戦力となりました。
一方バスは燃料調達が難しくなり減便、運休が続出。水力発電を基幹動力とする市電はますます乗客が増えていきました。車両を増やすことができないため、窮余の策として行ったのが朝夕のラッシュ時に一部の停留所に止まらない「急行運転」。その後終日急行運転となり、さらにはラッシュ時に「特急運転」まで登場しました。
|
|
|
勧業館前を行く市電と人々(絵葉書) | 時代を感じる辛島町交差点(絵葉書) | 急行運転路線図 |
戦時中「三菱航空機製作所」が健軍に建設され、この工員の足を確保するため1945(昭和20)年5月5日、水前寺~健軍町(当時は「三菱工場前」)が単線で開通しました。
一方、交通機関も生活統制の観点から川尻線(長六橋~川尻町)と百貫線(田崎~百貫石)を運行していた熊本電気軌道の路線も熊本市が買収することとなりました。しかし、戦局の悪化に伴い百貫線は国の金属回収の対象となって1945(昭和20)年3月から運休。川尻線の一部単線化のレールと合わせて健軍線の建設に使用されました。
やがて終戦を迎え、被害の大きかった市電や市バスの復興は容易ではありませんでした。安全性確保と輸送力増強のためボギー車と呼ばれる台車が2つある大きな車両の導入やレールの取り替え、健軍線の複線化、安全地帯の設置などに尽力しました。
●大水害と交通博覧会
1953(昭和28)年6月26日に発生した熊本地方の大水害により、線路冠水により運行停止が続出し、20時過ぎには分断された軌道上に20両の電車が取り残され、市電はその機能を完全に停止。大江車庫、大江変電所一帯の心臓部も浸水し、車庫内の電車・バスは全車両が泥水に浸かってしまいました。
7月7日に熊本駅前~辛島町の運転を再開し、次第に復旧していきました。しかし流された代継橋が架け替え復旧したのは6年後の1959(昭和34)年4月になってからでした。
1954(昭和29)年の開業30周年を記念して、10月1日~11月15日の46日間、水前寺一帯において「熊本交通観光大博覧会」が開かれました。そのうちの一つ電車館の中央には新車185号がデンとすわり、その隣の大パノラマに走る電車の模型、ケーブルカーやトロリーバス、地下鉄の模型などが所狭しと走り回っていて賑やかでした。また、宣伝電車2両と花電車3両も街中を走りました。
博覧会初日であるの10月1日は、坪井線(藤崎宮前~上熊本駅前)の開通日でもあります。これにより、上熊本駅前~広町~水道町~水前寺の系統が新設され、市内各路線と直通運転により大変便利になりました。
|
|
|
泥土に覆われた大江車庫の復旧 | 流出した代継橋 | 交通博覧会電車館 |
●最盛期
市内交通の主役となった市電は、1957(昭和32)年度には一日平均乗客数が10万人の大台を突破。1959(昭和34)年12月には田崎線も開通して、営業路線長は25.0kmにまで達しました。
1960(昭和35)年には熊本で国体が開かれたこともあって、運行系統数7系統、車両数90両、一日平均乗客数は11万人を超えるようになり、東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年度には一日平均乗客数が116,097人とピークに達しました。
車両も1955~61(昭和30~36)年に大型のボギー車23両を新造。また輸送力が低い単車も大阪市電の中古車に置き換えて輸送力の増強を図りました。
しかし国内は高度経済成長の時期でもあったため、人件費の高騰、諸物価の急上昇、マイカーの増加など思いもかけぬ問題が徐々に市電の地位を脅かしていきました。1958(昭和33)年度、絶頂のさなかに市電の経営は赤字に転落してしまったのです。その後合理化の遅れもあって、乗客は増えるが赤字も増えるという現象が起きてしまい、以後赤字は雪ダルマ式に増えていったのでした。
|
|
|
最盛期の熊本駅前 | 田崎線開通記念テープカット | 大阪さん竣工記念撮影 |
●衰退期
昭和40年代に入ってますます激しくなってきた自動車の増加により、市電は速度の低下や乗客の減少を招き、さらに人件費等の高騰によって赤字も雪だるま式に増えていきました。これに対して市交通局は、不採算路線の整理とワンマン化の2本立てによる合理化を進めていったのです。
運行中の路線のうち1965(昭和40)年2月21日に川尻線がその幕を閉じました。この路線はそのほとんどが専用軌道であったたものの、カーブが多いことや車両や軌道をはじめとする設備の老朽化等で乗り心地は悪く、乗客も次第に減って、同線だけでも毎年3,000~4,000万円の赤字を計上していました。
経営合理化の切り札として採用したのはワンマンカーの導入でした。これは九州内の路面電車では初めてのものです。試運転や乗務員訓練のあと、1966(昭和41)年2月1日より②号系統に、また6月1日からは③号系統に、さらに8月1日からは①号系統でも運行を開始しました。
人口の周辺部への拡散や急激なマイカーの増加はさらに続き、赤字がひどい坪井線と春竹線が1970(昭和45)年5月1日に、子飼橋線が1972(昭和47)年2月末をもってそれぞれ廃止されました。
|
|
|
川尻線廃止記念電車 | 九州初のワンマンカー | 交通渋滞が激しい浄行寺交差点 |
●忍耐期
行き詰まった都市交通を根本的に解決しようと、市では1970(昭和45)年4月に市交通研究会にその解決方法の研究を依頼しました。その結果田崎橋~健軍町の市電は当分残し、その存廃はモノレールなどの都市高速度輸送機関の導入と関連して処置し、他の区間はバス・国鉄(当時)などの既設交通機関の整備するという程度のもので、具体的な解決策を得ることはできませんでした。
そんな中、1974(昭和49)年1月には公営交通再建法の適用を受け交通局は赤字再建団体に指定されました。再建計画では1979(昭和54)年3月まに残存路線を順次廃止する予定でした。しかし様々な問題が浮かび上がり、廃止をそれ2年以上延期することとなりました。対策として運転系統や運転間隔の手直しとダイヤ制の導入、営業時間の短縮、運賃の値上げ、連節車導入による積み残し客の解消などが実施に移されました。
また市電速度の向上のために、1973(昭和48)年11月の軌道優先運動、1974(昭和49)年8月8日からは軌道敷内自動車通行許可区間のうち、水前寺付近の600mを除いてその指定を解除することで市電の速度が向上しました。
混雑する朝ラッシュ時には健軍町~八丁馬場で毎朝300人ほどの積み残しが出ていたため、輸送力がある西鉄福岡市内線の1000型連節車4編成1976(昭和51)年と1978(昭和53)年の2回に分けてを購入。積み残しもなくなり、乗客には大変好評でした。
さらに1978(昭和53)年8月、屋根の上に大きなクーラーを乗せた電車2両が市内を走り出しました。日本の路面電車では初めての冷房車です。鉄道車両の機器は大きすぎたりコストがかかるため、メーカーと共同で開発。その後既存車両も逐次改造。また暖房化も進め、乗客増に大いに貢献しました。
この他にも電停に屋根や泥除けフェンスを設置。電車接近表示器が初めて通町筋に設置されたのも1980(昭和55)年でした。
|
| |
モノレールイメージ図 | 西鉄から来た連節車 | 日本初の冷房路面電車 |
●改革期①
車両の老朽化と客のニーズに応じた高性能電車の導入要求時期が重なり、これに合わせて登場したのが8200型です。この車両は現在では主流となっている交流モータ(誘導電動機)駆動方式を日本の鉄道界で初めて採用したものでした。1982(昭和57)年8月2日午後から運行を開始し、一般から募集した「しらかわ」と「火の国」の愛称が付けられました。
1988(昭和63)年の熊本市制100周年を機会に市と姉妹都市との国際交流を高め、また乗客誘致策の一貫として、これまでのスタイルを一新させた最新型車両の8800型を2両登場させ、「サンアントニオ」号「桂林」号と命名されました。さらに1992(平成4)年3月末に登場した9200型のうち1両には「ハイデルベルク」号となりました。
1994(平成6)年に市電が開業70周年を迎えるに当たり、この記念事業として1993(平成5)年9月、実用車としてのレトロ調電車101号を登場しました。車体のスタイルは、明治・大正時代に大都市を走った二段屋根の大型ボギー車をイメージしており、折り畳み式の救助網、ダミーポールも再現しました。またこれと合わせてレトロ調バスも登場しました。
1991(平成3)年3月、交通局は21世紀における市電の役割と方向性をとりまとめました。その中で「乗りやすさの追求のために床面の高さが350mmを目標にした低床式LRVの導入」の必要性をうたっていますが、国内メーカーの実績がないため、数年かけて国やメーカーと協議し、実績のあるドイツの技術を使用した「超低床電車」を導入。1997(平成9)年8月1日から日本で初めて運行を開始しました。これに合わせて軌道や電停の施設の改良も行いました。以後新車はすべて超低床車両で増備されています。
自主再建の切り札のひとつとなったのが大江の車庫、車両工場などとして使用している土地の高度利用でした。ここは一等地であるため市の施設として有効活用し、老朽化した車庫・工場を上熊本駅横の旧貨物駅跡地に移転。2002(平成14)年10月4日に落成式が行われました。
|
|
|
日本初の交流モーター車両 | レトロ調電車バス出発式 | 日本初の超低床電車 |
●改革期②
情報技術の発達により様々な情報を乗務員やお客様にも提供できるようになりました。まず、1987(昭和62)年3月にトランシーバ型の業務用無線機を設置。続いて1990(平成2)年9月には「市電運行管理システム」の一部運用を開始しました。また、事故時や緊急時に営業所と各車がやりとりできる車両無線機が市電で運用開始されたのは1991(平成3)年4月でした。
市電開業80周年となる2004(平成16)年8月には、専用ホームぺージの運用を開始。2011(平成23)年3月、「路面電車優先システム」の運用を開始。また同年10月にはドライブレコーダ設置し、安全性の確保や向上、事故時のスムーズな対応に活躍しています。さらに安全性向上のための車内カメラや電停のライブカメラなども設置されました。そして2017(平成29)年3月にはパソコンやスマホで現在の市電の位置や系統別、車両の種別もわかる「熊本市電ナビ」の運用を開始。主要電停に設置したモニターやデジタルサイネージでも利用客にさまざまな情報を提供しています。
2011(平成23)年3月の九州新幹線博多~新八代開業に合わせて、拡幅された熊本駅前~田崎橋の道路西側にサイドリザベーションを導入。軌道の緑化もおこなわれました。また観光客にわかりやすいように「運行系統名称の変更及び色分け」、「電停のナンバリング」、「一部電停名称の変更」も実施しました。その後軌道の緑化は「緑のじゅうたん事業」として市民からの寄付金を活用して市の中心部でも進められ環境整備に役立っています。
市営バスは2014(平成26)年度末をもって民間に移譲されました。市営バスの歴史については、「市営バスの88年のあゆみ」に詳しく書かれていますので、そちらをご参照ください。
2014(平成26)年10月3日、これまで見たことのないデザインの車両が走り出しました。これがCOCOROです。この車両は市電開業90周年を記念して増備された車両のデザインを、デザインの専門家である水戸岡鋭治さんにお願いしたものでした。熊本城の城壁をイメージした黒に近いメタリックの濃茶色一色です。この他にも車内外にいろいろなデザインがあり、注目を浴びています。
1998(平成10)年3月、熊本都市圏の電車やバスで運賃の支払いができる共通プリペイドカード(TO熊カード)の運用を開始。これが発展し、カードにお金をチャージして使う電子マネーへと移行しました。熊本市電では西日本鉄道で使われているnimocaという交通系ICカードを「でんでんニモカ」という名称で2014(平成26)年3月に導入。定期券もその年10月にこのカードへ移行されました。
さらに電子技術の発達が進み、スマートフォンの性能が向上。これを利用した「モバイル乗車券」が熊本市電にも登場しました。2020(令和2)年12月にモバイルの一日乗車券が登場したのを皮切りに、定期券、回数券、24時間乗車券が発売開始しています。そしてその後クレジットカードによるタッチ決済や、QRコード決済開始など支払方法が多様化しています。
|
|
|
サイドリザベーションを走る | COCORO出発式 | 市電ナビ登場 |
●災害対応
熊本地震は2016(平成28)年4月14日の前震、16日の本震と2回にわたり大きなものが発生しました。市電の沿線でも震度5強~6強とものすごい揺れが起こり、市電も16日から3日間全線運休、19日に一部区間で運行を再開、20日からは全線で運行を再開しました。レールの沈下や破断、変形、ホームの段差、各所の建物や車両の損傷等が発生しました。また被災者支援のために運休による定期券の払い戻しや期間延長、払い戻しや再発行手数料の免除、ボランティア輸送支援のために対象者の運賃無料化等が実施されました。
地震はいつ発生するのかを予見するのは難しいのですが、一方で台風や豪雨については、気象情報から事前に状況を予測し対応することができます。市電で最初の計画運休は、台風接近により2020(令和2)年9月6・7日の両日に実施されました。
2020(令和2)年1月15日に国内で初確認された新型コロナウイルスは、熊本県内においても学校の休校や緊急事態宣言の適用、まん延防止等重点措置適用、医療非常事態宣言等様々な措置が発出されました。この状況に対して市電も様々な対応を行ってきました。
「学校臨時休校に伴う朝ラッシュ時の臨時便運休」「密集防止対策のための臨時便運行」「深夜帯の減便」「土曜日を日祝ダイヤで運行」「平日終電の繰り上げと行先変更」等、感染状況に応じた対応を行いました。特に目を引くのは、朝の通勤ラッシュ時に混雑している市電の車内密度を少しでも解消するため、2020(令和2)年4月23日~7月31日の間、概ね10分間隔で臨時急行バスを健軍町から県庁通を経由して桜町バスターミナルまで運行したことです。
また感染防止対策として、「車内設備のアルコール消毒」「車内換気の徹底」「飛沫感染防止シートを取り付け」「8500型車両3両のクロスシートを撤去」等を行いました。車内放送、ポスター、ホームページや公式のツイッター等でも感染防止呼びかけ、車内混雑状況の公表もおこないました。乗務員に対してはさらに「マスク着用の義務化」「休憩室の増設による分散化」「営業所へのシート及びアクリル板設置」「共同利用事務機器のアルコール消毒の徹底」等も行いました。
市電の利用客数は、観光客の激減に伴い、2018(平成30)年度に1,108万人いた乗客が2020(令和2)年度には673万人まで落ち込みましたが、2022(令和4)年度には890万人まで戻り、感染症の5類移行したこともあってさらに復旧しつつあります。
ロシアのウクライナ侵攻が発端となった世界的な経済停滞には市電へもその影響が大きく、電力費の上昇やIC部品の入手困難による機器の設置や整備の遅れなどが発生しています。
|
|
|
地震後運行再開へ向けて試運転 | コロナ禍で臨時急行バス運行 | 座席撤去車両 |
●将来計画
市電は熊本市の発展に役立つのではないかということで、2000(平成12)年4月の市議会都市活性化対策特別委員会で公表された延伸のたたき台となった7ルートついて試算を行いました。その結果いずれのルートでも事業単体では赤字であり、採算は取れないという結果が出ました。しかし2001(平成13)年6月、市長が東町ルートと広町ルートの優先整備を表明。また2004(平成16)年3月には九州運輸局と熊本県が採算性が高いと思われる自衛隊ルートについて道路混雑緩和やまちづくりなどの事業効果も勘案した試算を行ういました。市は各ルートについて2015(平成27)年度に基礎調査、翌年度に詳細調査を実施.優位性が高い自衛隊ルート(健軍町~現・市民病院周辺)について住民意見等の把握や交差点形状の検討などを実施。さまざまな効果が期待できるとして、現在熊本市による具体的な検討に入っています。
2024(令和6)年8月1日、熊本市電は開業から100周年を迎えることとなりました。その前哨戦として「クラウドファンディングによる旧塗装の復活」「車内やまちづくりセンターでの写真展開催」「ビアガー電の復活」「100周年記念マークの制定」「記念グッズの販売」「フォトコンテスト」などを行ってきました。記念式典や新車両の導入をはじめ、様々な催しものも行います。
先代たちが築いてきたこれまでの100年をベースに、熊本市電がさらなる進化を遂げるように、私たちは市電利用者に限らず住んでいる人々や熊本を訪れる人たちのために、「市電100年、そして次の世紀へ」を合言葉に、次の100年を目指して頑張っていきます!
|
|
|
現在の路線図 | クラウドファンディングで旧塗装復活 | 100周年に登場する車両 |